当時は暴走族の対立が激しい時代でした。首都圏東部では浦安ナンバー1、アイ・シー・ビー・エムグループ、市川スペクターなどのチームが乱立し、覇権を争っていました。
事件の日、浦安ナンバー1が市川スペクターに襲撃されるという噂があり、怒羅権のメンバー8人が事の顛末を見届けるため、浦安ナンバー1がたまり場にしているボーリング場にいきました。理由は定かではありませんが、そこで市川スペクターのメンバー数十名に襲撃されたのです。
相手を刺殺してしまったB君は、集団で羽交い締めにされ、鉄パイプで殺されかけたと裁判で証言しました。なんとか逃げようとしましたが追いつかれ、闇雲にナイフを突き出したところ、相手に致命傷を与えてしまいました。
私はこのとき中学3年生でした。実はたまたま現場の近くにいて、無数のパトカーのサイレンを聞き、かけつけたのですが、そのときには全てが終わっていました。
私たちの言い分としては、B君は正当防衛です。ナイフはたしかに問題ですが、相手は圧倒的な多勢ですから、そうでもしなければ殺されていたでしょう。しかし、B君は逮捕され、殺人、殺人未遂、盗み、銃刀法違反で少年院送致が決定しました。
怒羅権の多くの者が憤りました。非常に不公平な判決と感じたためです。
最終的には弁護団の努力によって正当防衛が認められ、B君は無罪となりましたが、私たちの境遇や心情をまったく汲み取らずに不当な刑罰を押し付けてくる警察と司法に極めて強い不信感と怒りが生まれました。
1人の仲間がヤクザに殺された
もう1つの大きな転換点が同年8月の通称「朱金山事件」です。
その日、1人の仲間がヤクザに殺されました。
殺されたC君は怒羅権から足を洗っており、普通の職について真面目に働いていました。久しぶりに私たちに会いに来てくれて、給料で焼き肉をごちそうしてくれることになっていました。
その焼肉店はヤクザが経営していました。店内にいたヤクザ3人に因縁をつけられ、乱闘になりました。その渦中で、C君はよってたかって押さえつけられ、呼吸ができなくなり、命を落としたのです。
ヤクザに対する怒りもありました。しかし、警察と司法の対応も納得できるものではありませんでした。司法のくだした結論は、ヤクザがC君を押さえつけたことと、彼が命を落としたことには因果関係がないというもので、ヤクザが罪を問われることはなかったのです。
私たちが不良だからでしょうか。私たちが中国人だからでしょうか。それがC君の死の理由になるのでしょうか。警察やヤクザといった強き者が行った私たちに対する理不尽は、私たちが日本の中学校で直面したいじめと重なりました。
とくに警察に対する怒りは凄まじいものでした。マスコミには出ていませんが、当時は警察の不当な暴力で命を落とした仲間が少なくありません。集会のときに、バイクの車輪に警棒を突っ込まれて転倒して死んだ者、自動車で走行中に警棒で窓ガラスを割られ、衝突事故を起こして死んだ者など、いくらでも挙げられます。警察の中には私たちのような外国人を無条件で差別する者が当時珍しくなく、私たちは人間扱いされていなかったのです。
そうした理不尽に対する怒りはまもなく暴力という形で結実し、90年代に入ると怒羅権は社会問題となるほどの凶暴性を帯びていくことになるのです。
「火炎瓶を積んだバイク」で警察を襲撃
警察を襲撃というと、あまりにも反社会的であるという印象を抱くかもしれません。しかし、怒りに突き動かされた私たちにとってそれは自然な成り行きでした。先述した朱金山事件以後、みんなが一斉に警察を襲撃し始めたのです。
一度行動を始めると、集団心理が働いてどんどん過激化していきます。「あいつらがパトカーの窓を割ったらしい」と聞けば、「俺たちは交番を襲って拳銃を奪おう」といったように、どんどん行動はエスカレートしていきます。そこには躊躇も、恐怖心もありませんでした。
私も仲間5人で江東区の深川警察署に放火しにいったことがあります。火炎瓶を積んだ原付きバイクを走らせ、警察署が目前になったら飛び降りる計画でした。
私たちのイメージとしては、そのまま映画のようにバイクが走っていき、警察署に衝突して爆発するというものでしたが、実際はうまくいきませんでした。
飛び降りたときにバイクも転倒してしまいました。火炎瓶が割れ、バイクは火だるまになりながら道路を滑っていきました。立ち番をしている警官からすれば、火だるまになったバイクと少年が転がってくるのですから、さぞ驚いたことでしょう。
腹や腕を縫い、ワンカップ大関で消毒
敵対する暴走族やヤクザとの抗争もこの時期を皮切りに苛烈なものになっていきます。怒羅権は少しずつメンバーが増えていましたが、全盛期の規模には達していませんでした。それでも喧嘩をした相手は、数千人は下らないでしょう。
私たちは徹底的に暴力をふるいました。そのため、怒羅権はよく根性があると言われますが、違うのです。根性がないから、怖いから、暴力をふるうのです。とことん恐怖心を植え付け、復讐しようなどと決して思わないようにしなければ、こちらが殺されます。
私たちがいたのは残虐でなければ生き残れない世界でした。私たちは異端者として差別され、社会にも守ってもらえないことは浦安事件や朱金山事件で思い知っていました。
私たちが大怪我をすることも珍しくありません。病院にはいけないので、自分たちで治したものです。ナイフで割かれた腹や腕を縫い、ワンカップ大関で消毒したこともあります。
そんな中で私は一応医者の子でしたから、衛生兵を自負していました。怪我人が痛がって治療できないとき、まず私を殴らせます。口の中が切れて血が出ます。その勢いで処置をします。痛いとは言わせません。私も痛いのですから。
「肋骨は6本ずつ折りました。歯や指も折ります」
この頃、ある暴走族との抗争で両腕を折られる大怪我をしたことがあります。このときは流石に病院にいきました。骨が割れ、皮膚から飛び出していて、とても素人では無理だったからです。
医者は驚いていました。そして、こんなことを言いました。
「なぜ君のようなまじめそうな子がこんな怪我をするような喧嘩をしたのか」
私はまじめそうな風貌だったのでしょうか。そのときの私は胸中で、この医者をあざ笑っていました。「こんな連中が俺のことなど理解できるはずがない」と考えていました。このときは家族に知らせが行きましたが、父は何の反応も示しませんでした。
傷が治ったらすぐに復讐しました。15人で40~50人の相手チームを鎮圧し、土下座させ、1人ずつ木刀で腕を折ります。肋骨は6本ずつ折りました。歯や指も折ります。拉致して橋から河に投げ落としましたし、彼らの車は燃やしました。ヤクザが出てくれば相手の顔に任侠映画のような傷をナイフでつけ、事務所を全壊させました。
この時期の狂乱が、現在も語られる怒羅権の伝説のスタートだと思います。私が刑務所にいた頃、よく同室のヤクザからは修羅場をくぐった武勇伝を聞かされましたが、すべて可愛いものでした。
ドラゴンって葛西だよな
葛西は母子家庭住宅があるから昔から不良が多いよ